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ととのい時間 > サウナ瞑想

禅とは

サウナ瞑想

CONTENTS

禅とは何か
仏教のルーツ
仏教の教え
禅の特質
禅が教える本当の自己とは
欲望と要求
禅的生活のススメ


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禅とは何か

禅とは、「己事究明(こじきゅうめい)」、つまり「本当の自己(真実の自己)」のあり方に目覚め、その自己を現実の世界で創造的に表現し、どこまでも明らかにしていこうとする終わりのない修行の道だと私は受け取っています。

私が属している曹洞宗では、よく誤解されているように、特別な体験(悟り)を得るために修行するのではなく、日々を生きる修行そのものが悟りの表現、証拠になっていなければならないとされています。ですから、自分が一日24時間をどう過ごすかということの他に禅はありません。

ただ、このように言葉で禅を定義して納得しようとした時点で、すでに禅的ではなく、禅の本質からは遠ざかってしまいます。「禅とは〜である」というような固定した理解に居着くことを禅は許さず、そういう枠づけや規定を超越した自由自在な働きを大事にします。頭で理解することを超えて、自分自身のリアルな経験として、禅を体認しなければなりません。言葉では言えず、思いでは思えないことを行為で実現するのが修行ですから、それは思想ではなく、行いでなければなりません。

いくら言葉で禅をわかったところで、それはいわば料理のレシピ本を読んだくらいの意味しかないのです。やはり実際に自分で料理して食べなければわかりません。そのことをおさえた上で、禅のスタート地点に立つためという意味も含めて、ここではあえて言葉を使いながら禅について語ってみたいと思います。

 

仏教のルーツ

禅とは何かを感得する上で、仏教のルーツを知ることが大きな助けとなります。仏教の原点に帰ろうとする運動が、禅を生み出したとも言えるからです。

仏教とは、釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタが、宗教的探究を通してブッダ(目覚めた人)となり、本当の意味で人生を幸せに生きることができる考え方や修行法について説き示したことが起源になっている宗教的伝統です。

シッダールタは16歳で結婚し、男の子をもうけ、王子として何不自由ない生活を送っていましたが、そういった生活の延長線上にも避けられない苦が存在することに気づきます。そこで、真実の生き方とはどのようなものかを求めて、家族や国を捨てて修行の旅に出ます。

修行に出たシッダールタは、当時宗教的な行法として広まっていた瞑想や苦行を徹底的に試みましたが、その延長線上にも根本的な解決がないことに気づき、その路線での修行を放棄します

瞑想や苦行とはまったく異なる修行法として坐禅を見出したシッダールタは、ついに深い目覚めを得てブッダとなりました。かつて苦行を共にしてきた5人の仲間たちに、自分の見出した新たな修行の道を説き、彼らを目覚めへと導くことに成功します。

正見(正しいものの見方、ヴィジョン)に導かれて、正しい方向性をもって修行をしていくことが、真の幸せであることを説いていったのです。仏教とは「修行の宗教」なのです。

仏教のルーツ

 

仏教の教え

「幸せへの道はない。幸せが道である」仏教の中心にあるのは、そこを歩く一歩一歩がすでに真の幸せであるような「修行の道の歩き方」について理解することです。

普段の私たちは、おいしい物を食べるとかきれいなものを見るといった感覚的な快楽や、出世や成功といった人生上の目標を達成する喜びなど、大小に関わらず欲望を動因として動き、それらを満たすことで一時的に得られる幸せをアテにして生きています。つまり、欲しいものを手に入れたいという「物足りようとする思い」に引き回されているわけです。それを「所有havingの次元」で生きていると言ってもいいでしょう。

ブッダの時代から2600年が過ぎ、これ程までに豊かになった今でも、私たちはいまだ幸せになり切れず、あいかわらず心が煩わされ、乱されていて、ととのいを必要とするような状態で日々を過ごしています。

それは、自分が欲しいものを所有するというやり方では、本当の幸せを得ることはできないことを示しています。何かを欲しがるということは、今はその何かを持っていないのですからまだ幸せではないということです。そこでは幸せはいつも未来に待望されるものになってしまいます。しかも、幸せであるためには、欲望を持ち続けなくてはなりません。これは際限のない苦しみのサイクルに閉じ込められていることに他なりません。

しかし、かといって欲望を無理やり抑制したり滅しようとすることも、また幸せをもたらしません。欲望に振り回されるのでもなく、また欲望と戦うのでもない、そのどちらでもない第三の道、つまり中道がブッダの見出した生き方でした。それは、今ここで生かされて生きている本当の自己に目覚めて生きるということです。「存在beingの次元」で生きると言ってもいでしょう

ブッダは、人がなぜ悩み苦しむのかという原因と、どうすればそこから脱して幸せになれるのかという克服法を洞察し、本当の幸せを体現した圧倒的な存在感と叡知に裏づけられた言葉によって人々を教え導いていったのでした。

 

禅の特質

ブッダの時代から1000年ほどの歳月が流れ、28代目の弟子であるインド仏教僧ボーディ・ダルマ(達磨大師)は、中国に渡り、ブッダが遺した言葉を学問的に詮索することより、自らの本性を徹見して、ブッダとして生きることの方が大切だと説きました。

冒頭で触れたように、ブッダが示した生き方をどれほど言葉巧みに表現したところで、それは自分以外の誰かの経験や考えを頭で理解するに過ぎません。禅は、他でもない自分自身によってリアルに体得されるものでなければなりません。仏の教えを自らが主体的に修行することをボーディ・ダルマは重んじたのです。これが我々の知る禅の伝統の始まりと言えるでしょう。

禅問答で、弟子が師に「仏とは何ですか?」と問うた際、師が弟子に「乾屎橛(かんしけつ)」と答えたという話があります。
その師は、カラカラに乾燥した棒状の糞でさえも仏の姿なのだと言おうとしたのだとか、その解釈は様々にできますが、今の文脈で解釈すると、お前のように仏を概念や言葉で理解しようとするのは、まるで乾屎橛をつかもうとしているようなものだと、弟子の学ぶ態度を叱っているのではないでしょうか。

あるいは、そんな宙に浮いたような質問をするお前はみずみずしさのない、まるで乾屎橛のような生き方をしてはいないか!と言いたいのかもしれません。

いずれにせよ、仏を向こう側に置いて求めるのではなく、お前自身がすでに生き生きした仏そのものであることに目覚めなさいと教えているのです。禅の特徴が見事に表されている問答です。

禅のコンセプト

 

禅が教える本当の自己とは

日本曹洞宗の開祖である道元禅師は端的に「仏道をならふ(学ぶ)といふは、自己をならふなり」と言っています。

そして、この自己のことを「尽一切自己(じんいっさいじこ)」と言っています。あらゆるものをその内容としている自己というのですから、それは普段私たちが「俺」とか「私」と言っているちっぽけな自分とは違います。

私たちが普段の生活の中で感じている「自分」とは、「物足りよう」の思いに支配され、心が自由を失い、周りのものから分離して存在しているように感じる孤独で小さな閉じた存在です。その結果、いつも恐怖と不安を抱えて、自分を守ってくれるものを落ち着きなく探し続けています。

一方、禅が教える本当の自己とは、世界との間に障壁がなく、自由に開かれており、今この瞬間に自己を生かしてくれているあらゆる繋がりや関わり、つまり宇宙全体の働きを内容とする大いなる自己です。

自分を包んでいる空間であったり、目の前にいる話し相手であったり、聞こえてくる音や漂ってくる香り、そういった出来事の総体を生のいのちとして溌剌と雄大に生きているのがこの自己なのです。

この生きている自己は考えている自分よりはるかに大きく、根源的です。生きているからこそ考えることができるのであって、その逆ではありません。

そういう自覚において、スミレはスミレらしく、バラはバラらしく花を精一杯咲かせるように、それぞれが自己といういのちの花をユニークに咲かせていくことこそが禅の修行であり、それ以外に真の生き方はないというのが禅の立場です。

 

欲望と要求

ここで、小さな自分が抱く欲望と、大いなる自己から出てくる要求を便宜的に区別してみます。

ものを狂おしく必要以上なまでに欲しがっている人を横から冷静に見ればわかるように、いのちそのものではなくその一部であるアタマが知らないうちに条件づけられて、訳もわからずに欲しがっているのが欲望です。喩えで言うなら、ロボットが外から組み込まれてプログラムに従って動いているようなものです。

一方、要求はいのちそのものに内在的に備わっていて、その人の存在自身が止むに止まれず求めている存在の理由のようなものです。喩えで言うなら、種子が持ち前の力で、芽を出して、陽に向かって伸びていくようなものです。

仏教が乗り越えることを説いているのはこの欲望の方です。
欲望が静まることによって、初めてこの世に生まれてきた根源的な要求が働き出す可能性が開けるからです。この意味での要求は、宗教的な意味での「願い」と言ってもいいかもしれません。未来のアテをめざす欲望ではなく、今ここで生きる方向性としての願いを羅針盤として生きることを教えているのが禅なのです。

そのような「誓願」を持って生きる人を仏教では「願生の菩薩」と呼びます。一方、自分の欲望充足を至上のものとして生きる人は「業生の凡夫」です。

自分の人生を生きる動機を、利己的な欲望にするか、自利利他円満を願う要求にするかでその人生風景はガラリと違ってきます。
禅の修行は言うまでもなく要求、つまり誓願に基づいたものでなければなりません。

禅のコンセプト

 

禅的生活のススメ

未来の幸せを目標にして、いつか幸せになるために今がんばるというのではなく、今ここでの生き方そのものが、すでにして真の幸せになっているような修行が禅の修行であり、それが禅的生活です。

禅の修行というと、脚を組んで坐禅をすることだけにフォーカスされがちですが、実は坐禅をしている時だけが修行なのではなく、料理や食事、掃除やお寺の修繕など、修行生活を続ける上で必要な作業(作務)を行っている時も、すべての行いが修行になっていることを、禅ではとても大切にしています。

何をしていても、それが真実の自己の表現となっているかが問われるのです。その標準となるのが坐禅なのです。

坐布の上で坐禅をしている時(ON坐布)だけでなく、それ以外の場面(OFF坐布)の在り方も同じように大切な修行なのです。

坐禅の時は坐禅の調身・調息・調心の工夫があるように、掃除の時には掃除なりの、食事をしている時には食事なりの調身・調息・調心の工夫があります。それをその都度、初心者の心をもって新鮮に取り組んでいくのです。刻々変化していく現実の中において、自己を調える工夫を通して自己を常に新たに探究し、磨いていくことが、結果的にその人独自の禅的生活を形作っていくでしょう。それは、ブッダが「調えられし自己こそ真の拠り所である」と言い、道元禅師が「身心を調えてもって仏道にはいるなり」と言ったことの実修実証に他なりません。

禅はその人その人、その時その時で常にユニークな姿で表現されるべきものです から、そもそも一般化することができないのです。そこにこそ、禅の醍醐味があると私は思っています。

※関連ページ 「実践!禅の行い方」

 

文責/監修:藤田一照(ふじたいっしょう)

1954年に愛媛県生まれ、灘高校、東京大学を経て、同大学院時代に坐禅に出会い深く傾倒。
28歳で博士課程を中退し禅道場に入山。29歳で得度。33歳で渡米し、以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導。

2005年に帰国、2010年より2018年まで曹洞宗国際センター所長。
Starbucks、Facebook、Salesforceなどアメリカの大手企業でも坐禅を指導する。

Facebook上で「松籟学舎一照塾」を主宰。著書・共著・訳書多数。

藤田一照 公式サイト:http://fujitaissho.info/

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